2004年の暮れ、この日の晩、おれはジョイトイとTD04の路地裏を
ガサガサと散策しておりました。
町の中にはいつもダレもいなく、ただひたすら吠え続ける部落犬がいる
キムチ屋さんに、
玄関の土間にデーブルが並んだ焼肉屋さんがありました。
ヤキニク喰いにきたのに閉まってたから
ドアをガンガンガンガン叩いてたら中からおばちゃんが出てきた。
「足がもう悪くてねえ。。。ごめんねえ。。。」
そうなんですね。食いたかったなあ。
おばちゃんお大事にっす、と行って帰ってきた。
土手下はヒトの気配はあるものの、街燈がほとんどなく
トタンの屋根のバラックが所狭しと立ち並ぶ
朝鮮部落。
三脚がないと当時のデジカメじゃ写真なんか撮れたもんじゃなかったな。
舗装されてない砂利道なんぞ、
おれがこどものころには近所でもうほとんどなくなってたんだけど
TDは違った。路地がすべて砂利道。
くぼんだところには水溜り。
ガキのころ見た風景があそこにはまだ残ってたんだ。
「抜けられる」路地をそのまま突き進むと、
赤提灯が。
この町に一軒だけあった「より道」。
むかしNFKの長老、HさまにおれとチャンK、
連れてってもらったことがある。
ギュウスジと焼き飯。
冷蔵庫がぶっこわれてるらしく、完全に温いビール。
たてつけが悪く、おもいっきし力を入れないと開かない窓をあけると
目の前、ほんと、目の前ってゆーか目線のすぐ下に多摩川が流れていた。
大雨降って川が増水したらどうなっちゃうんだろうって
心配したくなるぐらいすぐそばに多摩川が流れてて、
座敷でビール呑みながら見る景色が、なんだかとても不思議な気分だったなあ。
この日はちょうどテレビでサッカーの日本VS北朝鮮の試合をしてて、
ママさんとお客さんで、
「きょうはどっちが勝つかしらねえ。」
「日本は強いからねえ。北朝鮮がんばれー。」
って会話をしてました。
メシ食い終わって、いいカンジに酔っ払って、
3人で薄暗い砂利道をじゃりじゃり歩いてたら、
うしろの方から「もとやんさ~ん。。。もとやんさ~ん。。。」
って声がしたら、ママだった。
「携帯お忘れですよ~。」って。
より道のあのママさん、かわいいヒトだったなあ~。
ムラのセンターといえる戸手教会。
ここには何度も足を運んだことがる。
なんででしょうか?
一度だけ日曜日の礼拝に参加させていただいたことがあるんだけど、
とってもおだやかなその場の雰囲気が、
なんともいえなかったなー。
おれなんか完全アウェーなはずなのに、
この場の一体感に完全に自分が空気の一部になってた気がしたよ。
なんともいえなかったなー。
おれなんか完全アウェーなはずなのに、
この場の一体感に完全に自分が空気の一部になってた気がしたよ。
差別だとか差別なんかしてないとか、はっきしいっておれは
そんなことどうでもよかった。
ただ、この町の景色がスキなだけだった。
昼間のTD。
不法占拠地帯独特の勝手に電気ひきまくってカオスった電線に
下水が整備されてないことがわかる便所煙突、
そして舗装されてない砂利道。
完全に市政から見放されてる独立地域らしさ満点なところが
おれを俗俗させるんです。
まあ、住民税とか所得税とか固定資産税とか
そーゆーのを払ってるかどうか定かでないからわからないんだけど、
しゃーないよね。
夕方のTD。
ここは、トタンのバラックと高層ビルがひとつの写真に納まるとして
路地裏ファンたちの間では聖地みたいなところだった。
足元の水溜りは糞尿垂れ流し。
そこにおおきな水鳥の死体が浮いたりしてた。
町の掃除をしてたおばちゃん。
TDはキレイなおばちゃんがいたなあ。
よりみちのママさんしかり、教会の孫さんの奥様しかり、
このおばちゃんしかり。
やっぱどことなく、違うんだよな負陰気が。
なんだろうなあ。
幻の戸手MAP。
これを持ってるヒト、おれ以外で知らない。
この町を外部のヒトに理解してもらおうとして作られたのがよくわかる。
涙ぐましい。
こんな魅力的な地図でした。
これを見てワキワキしないこどもとかおっさんはいないんじゃないかなー。
そんな戸手MAPを手に、週末となると
まだちっちゃかったうちのコたち連れてよく散歩しにきたなあ。
ここは、なんとかっていうおばあちゃん手作りの庭園。
これは、「なぜか電柱がおいてある」ところだ。
つげ義春のマンガ、「近所の風景」に出てくる
李さんが雷魚を釣って飼ってた池をハッケン。
この池を発見したことで「近所の風景」に出てくる町のモデルは
TDだって確信したよおれは。
「近所の風景」を読んでないヒトはぜひ読んでもらいたいな。
TDだから。
散歩してたら町のハルモニに出逢ったぁ~。
朝鮮訛りが激しく、ほとんどなにをお話になられたのか
わしは理解できなかったんだけど、
キサクなおばあちゃんだった。
2005年。まだアメリカに住んでたうちのアニキが
日本に一時帰国したとき、TDに連れてってあげた。
絶対びっくりするだろうと思って。
だってまだうちの近所にこんなところがあるなんて知らないだろうから。
2005年の9月ごろにはもうだいぶ立ち退きが進み、
町の玄関口や、土手下バラックへ続く獣道は
コンパネで封鎖されてた。
もう、この町はこのとき風前の灯だった。
まだかわいかったうちの長男w。
よくここに連れてった。スキだったみたい。
61クレスタなんかも放置されて町の風景の一部となってた。
町のはずれには長屋もあった。
中をのぞいてみると、ヒトがほんとひとり、寝れるだけぐらいのスペース。
トイレも台所も共同。
そしてここにもやたらと攻撃的なイヌがいる。
おれがイヌきらいなのは部落のイヌのせいもでかい。
更地となってしまった町。
いまここには冷蔵庫みたいな高層マンションが立ってる。
つまらん。
なくなってゆく町を見て黄昏朝鮮じじい。
このおっさんには何度となく怒鳴られたなあ。
GR71をバリスティクス塚原さんからゲットしたそのままTDへ
ひとり納車ランw。
町の遺品。くぎ抜きと表札。
ヒマなときしょっちゅうTDの写真や話なんかをうpするんだけど、
たぶんこれからもやると思う。
そんぐらいあのときのこの町はおれの中ですごい影響受けたんだな。
ほんと衝撃だったんだよ!
0 件のコメント:
コメントを投稿